脳動脈奇形と私。
私は自己紹介の時にも、少しお話を
させて頂きましたが、今回はもう少し
それについてお話させてください。
脳動脈奇形とはあまり聞きなれない病名でしようが
簡単に説明すると、
脳の動脈と、静脈が毛細血管を介さず
直接繋がってしまっている奇形の血管の事です。
なぜそれが奇形かと言うと
普通は動脈から静脈へ、血液の流れが変わる時
間に毛細血管があり早い流れの動脈から緩やかな
流れの静脈に移行していくそうです。
だけど私みたいな動静脈奇形が脳にあると、
直接動脈と静脈が繋がっている為、血管の壁も
壊れやすく、壊れると脳内出血をおこします。
というわけで、簡単ですが、そういう訳で
私は25歳の時、その病気を発症しました。
先生言わく、10万人に1人の割合だと言われました。
それに、奇形ができてる部位にもより、
私みたいな障害が残ったり、痙攣を引き起こしたり
する場合があります。
あっ。ここからは、私の体験談になります。
とても長くなりますので、
興味がある人は是非読んで頂ければ幸いです。<(_ _)>
それは、突然やってきました。
平成6年3月25日 忘れません。
突然でした。
そのときはもう3人の子供達がいて、
長男5歳、長女3歳、次女1歳10ヶ月でした。
いつもの様に朝主人を送り出して、
朝、家事をして、その日の昼は近くのママ友達と、
子供達と、Macに行く予定だったので、
そのママ友とTELで話をしていたときのことです。
急にあっ!と立っていられなくなり
体の力が抜けて座りこみました。
意識はありました。
私がとても運が良かったのは、
その時、電話で話していたママ友のおかげです、
その方とその方がもう1人のママ友と一緒に
来てくれて、そのもう一人のママ友が
結婚前に看護師で脳外科で婦長さんだったらしく、
すぐにそこの救急車を呼んでくれました。
そして、病院に着いた時にはもうすでに
言語障害が出ていました。
色々検査が始まり、私の場合
感覚機能すべてと運動機能少しを司る部分の脳に
出血をしており、そこと、もう1箇所奇形の部分が
あったらしくて
開頭手術になりました。
もちろん、頭は丸坊主!
長い手術の末とりあえず無事に成功しましたが
左半身は動きませんと家族には言われたそうです。
その奇形の部分はどうしたのかと言うと
レーザーで焼いて止めたそうです。
その時うちの母親が、今までそこに流れていた
血液はどこにいくんですか?と
尋ねたそうです。すると
血管というのは、また出来ていきます。と
だからそれに耐えれるか、耐えられないかは
娘さん次第だと、だから手術が終わってからの
一日がヤマだと。あとは何もすることは無いと
覚悟はしておいて下さいと、言われたそうです
私も後でその話は母からききましたが。
当の本人である私といえば、全く死ぬ気は
しなかったです。何故か。
それから、目覚めたのが2日後の27日
最初は急に脳を起こすとびっくりするらしいから
ほとんどは薬で眠らされていました。
ほとんど集中治療室にいた時のことは
記憶にないです。
ただ、左半分はもう全く動かないと、家族には
言われていたそうですが、
おぼろげな意識の中で膝下がビクッと動いたんです。
それを見た、先生が、ビックリしていたのを、
かすかに覚えています。
一般病棟にはいる頃には少しずつ意識もハッキリ
する時間も増えて、考えるのは食べ物の事ばかり
それまでは24時間点滴で何も食べれなかったから!
いやー骨と皮になってたね。
子供達とも全然会えなかったです。
子供は集中治療室に入れないからです。
2週間くらいした後やっと一般病棟に行けました。
やっと普通のご飯もたべれるようになり、
だけど寝たきり。食べる時は、ベットをおこして
食べたりしていました。
後は、手はグーパーしか出来ない。
だから、暇なので、手で狐を作っていました。
だけど今は出来ますが、最初はそれが出来ない、
指で数を数える事もできない。
右手はもちろん、できます。
赤ちゃんがグーパーしか、出来ないように
それと同じ状態でした。その時は思わなかったど
あとから考えると赤ちゃんが色々覚えていくように
私の左手もその状態だったんです。
ただ違うのは、
私の場合はもう、脳内出血で感覚機能と運動機能が
死んでいるので、限界があるということです。
それに、私は自分の状況というのをあまり、
理解できていませんでした。
これまで、大きな病気もした事もなく、健康体
でしたので、すぐ退院出来るとばかり
思っていました。
だけれども、ある日どうしても、便が出なくて
尿はまだ管をされていましたので。
すると、看護師さんがオマル持ってくる?って
普通にいうんです。
いやいや、出来ないよ流石に、って思ったけど
とりま持って来てもらた。
やはり出ないし!
すると、車椅子でトイレ行ってみる?
って、言われたので、そうしてもらおうとしたら、
な、なんと、自分で起き上がる事ができないし、
上手く動けない。
え?!と思いながら、看護師さんに抱えまれ
車椅子に乗りトイレにいきました。すると!
車椅子用のトイレに鏡があり、病院に来てから、
初めて、自分の顔というものを見たのですが、
倒れる前の顔と全くの別人がそこに写っていました
もう、全くの生気はなく、男でも女でもない、
死人みたいな顔だった。
凄い大変な状況なんだと!
凄い病気の手術をしたんだと、
変貌した姿に、今の現実がやっと分かり、
涙が溢れて止まりませんでした。
溢れると言うより、もう、人目もはばからず
大声で泣きじゃくり、心配して看護師さん、
先生まで、病室に来ました。
毎日来てくれていた両親でしたが、
母親は察したのか、何も言いませんでした。
あの時の顔と、ショックは今でも忘れません。
やはり、倒れるまで普通に出来ていたことが、
出来なくなっていた事。
そうですよね。
急に倒れて、気がついたら病院に運ばれていて、
ただの寝たきり状態。誰も詳しくは、
説明もしてくれていない。
この間まで、普通に起き上がったり、
立ち上がったり、出来ていた事が、出来ない。
ある程度、意識がはっきりしてきた中での
車椅子への移動が自分で出来ない事。
それを、ある程度意識がはっきりとしていた、
一般病棟に移ってから、鏡を見た途端に
思い知らされたって感じです。
それから、開き直ったのかは忘れましたが
現実を受け止めた様な気がします。
そらからしばらくして、手と足のリハビリが、
始まりました。
足は、最初は動かしたりで、筋肉が固まらない様に
トレーニングみたいなことをして、
補助カーみたいなのを使い歩いていました。
ある程度筋肉とかも戻ってくると、
両サイドバーがついたやつ
TVで見た事もあるかもしれませんが
あんなのに捕まり、歩く練習をしていきました。
で、空いている暇な時には
大きな病院でしたので、渡り廊下があったので、
車椅子で病室からそこまで行き、歩く練習を
していました。すると以外に早い段階で
足のリハビリは卒業して、先生から
若いから早いね〜と褒められました。(〃▽〃)
だけど手のリハビリはとにかくキツかった(><)
やはり手の筋肉をほぐすことを最初にしたと
思いますが、とにかく根気のいるリハビリでした。
まず、小さなカプセルを親指と人差し指で持ち、
上下ひっくり返してもどす。
それを、それぞれの指でやっていくんです。
全く動かない左手でですよ!
もう、根気と、努力しかなかった。(泣)
最初なんか、出来ません!でもやっていくうちに、
少しずつ、少しずつ出来ていきました。
何故にこんなにも頑張れたかというと、
やはり子供達が大きな要因ではないかと思います。
一般病棟に来てから、子供達がたまに来る時に
子供をトイレに連れてい行き、パンツを
左右、同時に下げることが出来なかったし、
今から子供達の世話をする上で、
両手使えないと、マジでやばいと思ったからです。
リハビリの話に戻りますが、
本当に手のリハビリは根気と、根性でやりました。
毎回終わると凄く疲れて、寝てしまうほどです。
だけれども、今でも思いますが、人間の脳て、
本当に不思議です。私は感覚機能とか全くないはず
ですが、先生言わく、違う脳と視覚でそれを
補っているそうです。
ただやはり火傷とかには注意しなさいとは、
言われました。後、左を忘れないようにと!
まあ簡単に言うと、例えば目を瞑って
どの指を触られているか分からないとかです。
くだらない様なことですが、私は分かりません。
ちょっと話それましたが。
入院生活に戻りますが、ある程度手のリハビリも
終わり、後は日常生活でやっていくしかないと
言うことで、いよいよ退院になりました。
入院生活2ヶ月半くらいです。早い方だそうです。
最初は完全に左半身麻痺と言われましたが、
ある程度動き、歩けるようになり、
本当に良かったです。
ただ毎日のお薬、ちゃんと飲まないといけない事。
今回脳の出血で脳の1部が死んでいる為に
それにより、痙攣を引き起こすかも分からない事。
後、ストレスも余りよくないです。
というのを言われました。
あとは定期的に病院通いがはじまりました。
そらから私にとり、
一生付き合っていかないといけない病気と
なりました。
それからは、日常生活がリハビリみたいな
感じで子育てをしながら、日々の生活で
リハビリ生活でした。
家事をする上で大変だったのは、
卵割り、ケチャップの蓋開け等などですが
沢山あった中で、これには特に苦労させれました。
卵割りは両手の力加減ですよね。
ケチャップもそうです。
容器がマヨネーズに比べ柔らかいので、
左手で持つと中身がブチューと出るんです。
本当に人間の脳って、どのくらいの力加減で
持っていいのかとかを一瞬で判断出来る
素晴らしい電気司令塔だと、
つくづく、思い知らせれました。
後は徐々に日々暮らしていく中で、
普通の生活も送れるようになり、
見た目も、普通の人と変わらないくらい、
病気をしたとは思えないくらいになりました。
病気をしたと言わなければ、誰も気づかないくらい
本当に自転車、車にも乗れるし、
普通の生活をしていました。
お薬は飲んでいましたし、通院もありましたが。
30代になり、仕事もし始めました。
なんか、成り行きで!営業でしたが。
久々の仕事が、楽しかったのを覚えています。
まあ、苦労もありましたが、
仕事始めて、すぐですが、夫と離婚をし、
子供達と4人で生活することになりました。
暫くは病気の方も落ち着いていたのですが、
先生の方から、ストレスもあまり、良くないと
言われていましたが、
そんなこと、言っている場合じやあないし、
生活する為に、一生懸命で
半ば忘れていました。すると、
やはりまた、大きな問題というか、試練というか
39歳の時に、やってきました。
ちょうど長男が大学受験でお金を作らないと
いけなくなり、大学というと、桁がちがいますよね
私の場合は以前からお金には随分苦労したので、
1番のストレスがお金なんです。
そのお金を用意しないといけないと、なった時
初めての痙攣を経験しました。
私の場合は後天性の痙攣で、意識はあります。
体が思うように動かなくなるというものでした。
救急車でまた運ばれ、処置をしてもらい。
主治医の先生がもう、その時には
その大きな病院をやめて、開業されていましたので
2週間位は毎日、通院でした。
仕事も、ドクターストップがかかり、
辞めることになりました。
痙攣を起こしたことで、薬が増えました。
それからしばらくはよかったのですが、
また暫くして2回ほど、痙攣はおきました。
やはりお金です。原因は。
その時に、多分良く眠れるよう様にと
救急車で運ばれた病院から睡眠薬を処方されました
それが、私と合わなかったのかは、
分かりませんが、視覚障害、聴覚障害がでました。
怖かったです。
でまた、救急車で運ばれたりして、
暫くは、その聴覚障害は続き、大変な毎日でした。
それからは、もう痙攣等はおきていません。
もう、病気を発症して、25年以上経ちます。
痙攣を起こしてからは10年以上です。
最初は絶望のどん底でしたが、
一生懸命頑張り、生きています。
それに、もう長いこと、左を常に意識しながらの
生活もこんだけ長く続けていると、慣れます。
これが、私なんだなと、思います。
ある程度のことは、何でも出来るようになりました
ただやはり、細かい作業とかは
出来ることと出来ない事とあります。
例えば、裁縫だとか、細かい作業だったり、
暗い所は苦手です。見えないと左手が、
分からないので。寝る時は必ず豆球をつける等
死ぬまで付き合っていかないといけない事。ですね
最後になりますが、
この病気をしたことで、やはり
当たり前に聞こえるでしようが、
普通に出来る事や、当たり前に出来ることが
出来るって、
本当に素晴らしい事と思います。
子供達にもよくいいますが、
人間、倒れる1秒前まで分からない。
何が起こるなんて、分からない。
今という時は二度と帰って来ないんだから、
後悔しないように毎日、毎日を過ごしなさい。と
健康でいられるこということは、素晴らしいこと。
だから私は、今はまだ、健康体ではないですが、
意識の問題であって、自分は頑張れると思ったら
何でも出来る!と思います。
それに、私だけじゃあなく、色々な病気がある中
それに負けず頑張って生きている人達なんて、
沢山のこの世の中にはいるはず!
私よりももっともっと、苦労されている人達も
いらっしゃると思います。
負けてなんかいられない。
今をどう生きるか!一度きりの人生!
後悔しないように、生きていけたらいいですね。
と思います。
なので、それなりに、好きな事をして
やりたいと思うことはやって、
自由に気ままに生きていこうと思っています。
これからは。楽しくね!
長々と書いてしまいました。
読んで頂き、有難うございました。(^^)/